無名の野良瞑想者による、オンラインのタントラ瞑想サロンです。
依存やカルト化を望まないため、匿名・非対面・一方向性のオンラインサロンとしました。
(まず需要はないと思うけれど)もし必要な方がいたら、ご自分でタントラを実践するための情報を提供するだけ、という方式です。
質疑応答や指導はいたしておりません。
*宗教団体・スピリチュアルのコミュニティ等とは一切関係ありません
*このサイトはいわゆる『超越的意識状態』をめざすものではありません。また『性タントラ』とは一切関係ありません
*このサイトに記載された内容はあくまで個人的見解にすぎず、絶対的真実ではありません
*本サイトに掲載されたテクニックの実践は、すべてご自身の責任で行ってください
チベットの山奥に三人の子どもとお母さんが暮らしていました。
子どもたちはお父さんに会ったことがなかったので、ことあるごとに「お父さんはどこにいるの」とお母さんに尋ねていました。
お母さんはそのたび「あなたたちのお父さんはとても立派な人だから、まだ会えないのよ」と答えました。
数年たったある日のこと、お母さんは「今からお父さんに会いに行くから支度をしなさい」といいました。
三人の子どもはお母さんに連れられ、旅にでました。
切りたった崖や轟々と流れる川を乗り越え、藪をかき分けながら、道なき道をひたすら進みました。
つらく長い旅路の末、ようやくお父さんの家がある谷にたどり着きます。
家の扉を開けると、お父さんが迎えてくれました。
三人は歓喜し、家族の団らんが盛りあがります。
出会いの興奮が冷め、お父さんの家を見回してふと気づきます。
そこは、三人が育ったお母さんの家だったのです。
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スピリチュアルの旅のはじまりは、「ここではないどこか」への希求だったのではないでしょうか。
あまりに苦しい現実から逃れようと、決死の逃避行にでます。
「ここではないどこか」「今とちがう、もっといい人生・自分」
人はそんな理想を『悟り』という言葉やイメージに託すのかもしれません。
大宇宙と一体化してみたり、神のごとき万能の聖者や何もかもを見通す賢者になろうとしたり、
果てない理想を求めて長い旅をし、いつかじぶんのもとの居場所に戻ります。
なんの変哲もない、あたりまえの日常に帰ってくるのです。
タントラ(金剛乗)とは、じぶんの居場所であたりまえの日常を生きることです。
天界を垣間見たり、神さまと合一したりといった珍しい体験ではなく、
今、意識せずとも心臓が脈打ち、息が出たり入ったりするあたりまえの不思議に心をおどらせるのです。
スピリチュアルの旅のはじまりを「宇宙への上昇」とするなら、タントラは「大地への帰還」といえるでしょう。
スピリチュアルを実践しているものの疑問を感じている方、「スピリチュアルに興味をもって宇宙旅行にでたものの、そろそろ地上に帰りたい。でも戻り方がわからない」という方向けのサイトです(『究極の何か』を目標とするものではありません)。
チベット仏教では、スピリチュアルの探求を大きく三つのヤナ(乗:乗り物のこと)にわけています。
ヒナヤナ(小乗:自己の救済)、マハヤナ(大乗:他者の救済)、そしてタントラ(金剛乗:理想や概念を放棄し、ただの人として「今ここ」を生きる)です。
たとえをまじえつつ、三つのヤナをざっとご紹介していきます。
ヒナヤナ(小乗)
人生が思い通りに運ばない、状況やじぶん自身をコントロールできないと感じたとき、わたしたちはパニックに陥ります。
混乱がきわまり、どうしようもなく苦しくなったとき、人はスピリチュアルの道に救いを求めます。ヒナヤナのはじまりです。
たとえるなら、はじめて海に遊びに来て、なにも考えずにドボンと水に飛び込んだら溺れてしまった。息ができず苦しいので、必死にもがきます。ショックで海に遊びに来たことも忘れてしまいます。
やみくもにもがいていたら、水面に浮かぶなにかに手が届きました。すがりついてほっと息をつきます。水面に浮かぶなにか(浮き輪やビート板かもしれないし、流木やトイレのフタかもしれません)が、ヤナ(乗り物)です。
こうして混沌とした現実から逃れ、ほっと息をつく術を覚えました。
ヒナヤナの行を通じて、わたしたちは日常のすき間に『空』という何もない空間を見いだします。
『空』には何もないからこそ、息をつけるのです。息をついて、よけいなあれやこれを手放しなさい、と教わります。
瞑想の実践を続けると、あら不思議。何もないはずの『空』を感じられるようになっていきます。
マハヤナ(大乗)
水面に浮かんで息をつく術を覚えたので、少し余裕ができました。
浮き輪やビート板やらを使って水面を移動できるようになったら、溺れている誰かに息のつき方を教えてあげようと考えます。共感と智慧の道「マハヤナ」のはじまりです。
マハヤナの道は、ある種の理想を求める道といえるかもしれません。
『空』の安らぎが永続するように、混沌がまた侵入してこないようにと願い、『空』の感覚とイメージを発展させていきます。
『空』の感覚が限界まで広がったとき、「そういや海に遊びに来たんだった」と思い出します。
「現実世界は幻想(とどのつまり実体をもたずに変幻する『空』)である、それゆえ『空』だけが真実である」という状態です。
いわゆる『目覚め』とか『一瞥』といわれるものです。
それでも、まだ旅は終わりません。安らぎをもたらす『空』をよりどころに、誰も傷ついたり苦しんだりする必要のないユートピアを創造しようともがきます。よけいなものを全て手放して、りっぱな汚れのない人になろうともがきます。
でも、この世界やじぶん自身は本当に『愛』と『光』だけで成り立っているのでしょうか?
「現実世界は幻想である。『空』だけが真実である」とうそぶいたところで、現実のあれこれに打ちのめされそうになるのはなぜでしょうか?
マハヤナからタントラへの過渡期には、いくつかの劇的な変化を経験します。
善悪・正邪・清濁・美醜・愛憎といった二元的な観念をゆさぶる出来事がおこり、内省の時間がもたらされます。
絶対的な善悪や正邪などなく、ものごとの価値や人のあり方は状況とともに変化します。場面場面でふさわしい行いをなすためには、凝りかたまった二元的な観念ではなく、共感と智慧が結びついたウパヤ(方便:臨機応変な巧みさ、流れるような柔軟さ)が必要なのです。
さらに、今まで求めてきた『光』が、『闇』との相補性で成り立つ『二元的な光』に過ぎなかったことに気づきます。
露ほども疑うことなかった基層的な概念や教えの言葉さえゆらぎはじめます。
般若心経(ハートスートラ)
ここでおなじみの般若心経(ハートスートラ)が登場します。
般若心経では観音とシャーリプトラの対話が描かれます。
あらゆる衆生の苦痛を取り除こう、と理想にむかってひた走る観音はマハヤナの『共感』の教えを象徴する存在です(観音は他者救済のために数え切れない転生を重ね、ときに痛々しい自己犠牲をはらったとされています)。
一方のシャーリプトラは『智慧』を象徴する人物。
教えの言葉を盲信する観音に対し「冷静に教えを吟味してみよう」と促します。
シャーリプトラは「現実世界は幻想(つまり『空』)である、それゆえ『空』だけが現実(真実)である*という。だが『空』とは本来『何もない・何ものでもない』のだ。わたしたちは、実体のないものに『空』という名前をあたえて、実在する物質のように扱ってしまったのではないか?自ら創りだした『空』という概念にとらわれていたのではないか?」と問いかけます。
観音は「そうか、わかったぞ!『空』はあくまで『空(から)』なのだから、現実世界こそが現実(真実)なんだ**」と言います。
その様子を見たブッダは「いいぞ!概念を越えて行け」と言うのです。
*現実世界は幻想(つまり『空』)である、それゆえ『空』だけが現実(真実)である=色即是空、空即是色
**『空』はあくまで『空(から)』なのだから、現実世界こそが現実(真実)なんだ=空即是空、色即是色
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これまで教えの中核として、心のよりどころにしてきた『空』もまた幻想にすぎなかったのです。
実体のないものに『空』という名前をあたえて、実在するモノのように広げて深めて…とくそ真面目に追究していったとどのつまり、「じつは『空』なんてありませんよ~。だって『空(から)』だもん」なんてオチが待っていたわけです。
これを『空性』といいます。概念には実体がないよ~、ということです。
今まで一片の疑いももたずに真剣に実践してきた教えが、方便つまり壮大なマッチポンプだったと気づくとき、爽快な笑いが訪れるとともにガツンと正気にかえります。
タントラ(金剛乗)
理想を求めてもがくことに疲れ、ふと見おろせば、足下に闇がうごめいています。今まで手放したつもりでいたあれやこれです。
『空』と完全に一体化してエゴが沈黙する瞬間を経験したものの、日常のふとした場面でエゴと感情が今までに増して激しく燃えあがり、翻弄されるじぶんに気づきます。
結局、エゴも欲望も手放したはずのドロドロも消えないままなのです。
宇宙の彼方かどこかへ上昇した意識と、変わらず地に生きる身体が乖離してしまっている。
もったいぶった求道者面で風塵を避けて『空』にひたり、現実逃避していただけかもしれません。よくわからない使命感につきうごかされ「誰かを救おう」など考えるなど、ただの思いあがりだったのかもしれません。
「あれ?何やってるんだろう?」と立ち止まったとき、タントラがはじまります。
タントラの護法神は恐ろしげなマハカーラーです。
今まで「よけいなもの」「汚いもの」と決めつけ排除しようとしてきたドロドロにキャラクターをあたえたら、マハカーラーになりましたとさ。
まぎれもないじぶんの一部である闇を受け容れ、仲良くなっていくのです。
もう「理想の世界」や「究極の悟り」を求めません。「わたしの存在」とは、『空』や『意識』のような、実体のないものに名前をあたえて創りだした概念ではなく、『ここにあるこの身体』です。
この身体に立ち戻って、混沌として恐ろしく見えた現実世界を生きていきます。
ものの見方を縛りつけていた概念を取りはらい、ものごとのあるがままの姿を見るなら、現実世界はそんなに恐ろしいものではないかもしれません。場面場面にふさわしい行いを生みだすウパヤがそなわっていれば、あれこれの悩みに絡めとられることなく世を渡っていけるかもしれません。
今度は重りを抱いて海に深く潜っていくのです。息のつき方・泳ぎ方を覚えた今なら、きっと海を楽しめることでしょう。
機能不全家族に育ち、認知や自意識のゆがみに長らく悩んだ末、瞑想にめぐり会いました。
その後、あるヴェーダ系瞑想法の教師資格を取得したものの、瞑想理論やコミュニティとじぶん自身の不健全さに疑問を感じていたところ、タントラの瞑想テクニックを感得するようになり、さらにチベット僧チョギャム・トゥルンパの書籍 ”Cutting Through Spiritual Materialism” に出会いました。
このサイトでご紹介する瞑想法は、チベット仏教の各師のタクナン(という現象だそうです)によるパーリ語のマントラと、チョギャム・トゥルンパの講義録三部作( ”The Profound Treasury of the Ocean of Dharma” シリーズ )から得た知識に基づくものです。
もしかすると、何かかんちがいされる方もあるかもしれませんが、管理人はごくごくありふれた路傍の小石のような人間です。
管理人は翻訳業を生業にしており、ここで紹介したチョギャム・トゥルンパの書籍の翻訳出版を企画していますが、実現するかはわかりません。
( *”Cutting Through Spiritual Materialism” のみ『タントラへの道:精神の物質主義を断ち切って』という邦題で出版されたことがありますが、現在絶版です)